薬指の標本 小川洋子
目 次
薬指の標本
六角形の小部屋
薬指の標本
1
わたしがこの標本室に勤めるようになってから、もうすぐ一年になる。前にやっていた仕事とはずいぶん趣が違うので、初めの頃(ころ)は戸惑ったが、今ではすっかり慣れてしまった。重要書類の保管場所は完璧(かんぺき)に把握(はあく)しているし、和文タイプはマスターしたし、電話の問い合わせに対しては、優しく丁寧に標本室の役割を説明することができる。実際、電話を掛けてきた人のほとんどがわたしの説明に満足し、また安堵(あんど)して、次の日にはそれぞれの品物を胸に標本室の扉(とびら)をノックするのだ。
ここの仕事はさほど込み入ったものではない。ある程度の慎重さと几帳面(きちようめん)さがあれば、問題なくこなせる種類の仕事だ。むしろ単純すぎるくらいだ。
だが退屈はしない。持ち込まれる品物の種類は数限りないので、飽きるということがないし、そのうえ来訪者たちは、たいていの場合、必要な手続きが終わってもすぐには帰ろうとしない。その品物がどうしてここへたどり着くことになったのかといういきさつを、わたしに話したがるからだ。
彼らの話を聞いてあげることも、大切な仕事の一つに含まれている。この一年間でわたしは、相手を安らかにする耳の傾け方や、微笑(ほほえ)み方や、あいづちの打ち方がうまくなったと思う。
ここで働いているのは、わたしと、経営者であり標本技術士でもある弟子丸(でしまる)氏の、二人だけだ。建物の広さからすると、少なすぎるかもしれない。ここには数え切れないほどの小部屋があり、その他に、中庭と屋上と地下室があり、機能していないとはいえ大きな浴場までついているのだ。
しかし仕事の量は場所の広大さとは無関係なので、わたしたちは二人だけでも、余裕を持って標本室を切り盛りすることができる。残業やノルマはないし、休日もきちんととれる。
わたしと弟子丸氏の役割は明確に分れている。彼は技術士として標本の作製全般を受け持ち、わたしは来訪者の応対と記録簿の整理、その他諸々(もろもろ)の雑用を任されている。
仕事の仕組みを教えてくれたのは弟子丸氏だった。予約表の作り方、品物を受け取る時の注意点、タイプの使い方、記録簿の記入方法、ゴミの収集日、掃除道具やお茶のセットや文房具の保管場所……。彼はこまごまとしたルールを、根気強く説明してくれた。ミスをしても怒ったりせず、冷静にそれをカバーし、言葉だけでは分りにくい問題は実際に彼がやってみせた。
そうしてわたしは、標本室に関するあらゆる事柄(ことがら)を理解していった。段々に一人で何でもできるようになってくると、彼はもう口をはさまなくなった。
「あとは、あなたのお好きなやり方でやって下さって結構です」
と言って、自分の持ち場に専念するようになった。おかげでわたしは、自分のペースに合わせて仕事の順序を入れ替えたり、書類の様式をアレンジしたりすることができた。
ここには、命令も強制も規則もスローガンも当番も朝礼もない。わたしは自由に標本を取り扱い、保管することができる。わたしは標本室をとても気に入っている。できることならいつまでも、ここにいたいと思っている。弟子丸氏はたぶん、それを許してくれるだろう。
標本室に来る前、わたしは海に近い田舎の村で、清涼飲料水を作る工場に勤めていた。それは浜辺に続くなだらかな丘の頂上にあり、周りは果樹園に囲まれていた。そこで採れるみかんやライムやぶどうを原料にして、ジュースを作っていたのだ。
最初、瓶(びん)の洗浄のセクションに半年いたあと、サイダーの製造係に回され、ずっとサイダー専門でやっていた。ベルトコンベヤーの具合を調節したり、不良品を取り除いたり、透明度をチェックしたりする仕事だった。
特別やりがいがあったわけではないが、仲間の女子工員たちとボーイフレンドについておしゃべりするのは楽しかったし、工場の窓から見える波のない海は、いつもわたしを平和な気持にしてくれた。毎日が、サイダーの甘い香りに包まれていた。
ある夏の、一年中で一番出荷量の多い大忙しのある日、わたしはサイダーを溜(た)めたタンクとベルトコンベヤーの接続部分に、指を挟(はさ)まれてしまった。
それはあまりにも一瞬の出来事だったので、時間が止まってしまったと錯覚したくらいだった。ガチャンと安全装置が作動し、機械が静止し、コンベヤーの上に並んだ瓶からは水滴がしたたり落ち、天井の非常ランプがくるくる回っていた。すべてがしんと息をのんでいた。わたしは不思議なほどに穏やかな気持で、その静けさに耳を傾けていた。少しも痛くなかった。
ふと気がつくと、吹き出した血がタンクの中に流れ込み、サイダーを桃色に染めていた。その澄んだ色が、泡(あわ)と一緒にぷつぷつと弾(はじ)けていた。
幸運なことにけがは大したことはなかった。左手の薬指の先の肉片が、ほんのわずか欠けただけだった。
もしかしたらそのことは、わたしが考える以上に重大なことだったかもしれない。何といっても身体(からだ)の一部を失ったのだから。でもわたしは周りが心配するほど傷ついてはいなかった。確かに初めて包帯を取った時には、微妙にバランスの崩れてしまった左手が頼りなげに思えたが、日常生活には何の不便もなかったし、三日もするとすぐに見慣れてしまったからだ。
ただ一つわたしを悩ませたのは、薬指の先の肉片はどこへ消えてしまったのだろうという疑問だった。わたしの残像の中でその肉片は、桜貝に似た形をしていて、よく熟した果肉のように柔らかい。そして冷たいサイダーの中をスローモーションで落ちてゆき、泡と一緒にいつまでも底で揺らめいている。
実際にはわたしの肉片は、機械のすきまで押しつぶされ、消毒液と一緒に洗い流されてしまったのだが。
サイダーを一口でも口にしようとすると、薬指の柔らかい肉片が舌を転がってゆくような気がして、どうしても飲み込むことができなくなった。あの事故のために、わたしはサイダーが飲めなくなり、工場もやめてしまったのだった。
欠けた薬指と一緒にわたしは街へ出た。海辺の村からこれほど遠出するのは初めてだったし、親類や友だちもいなかったので、最初はただ無闇(むやみ)に歩き回ることしかできなかった。いくつかの横断歩道を渡り、工事現場を迂回(うかい)し、公園を一周し、地下街を通り抜けている間に、標本室と出会った。
初めてそれを見た時は、取り壊しを待っているアパートだと思った。それくらい古くてひっそりとしていた。
周りは比較的高級な住宅地で、どの家にも出窓と犬小屋と芝生の庭があった。道は清潔で静かで、時々外車が通り過ぎていった。そんな中で標本室は、確かに特別な雰囲気(ふんいき)をたたえていた。
コンクリートの四階建てでどっしりはしているが、外壁も窓枠(まどわく)もアプローチのタイルもアンテナも、すべてがくすんでいた。どんなに目を凝らしても、真新しい部分を見つけることはできなかった。
人が一人やっと立てるくらいの小さなベランダが、横に十個、縦に四個、規則正しく並んでいた。手すりはすっかり錆付(さびつ)いていたが、洗濯(せんたく)ばさみや植木鉢(うえきばち)や段ボールや、そういう生活の匂(にお)いのするものが何もなく、すっきりとしていたので、うらぶれた感じはしなかった。
その他に、ダストシュートの筒が九本、物干し用の鉤(かぎ)フックが八十個、換気扇のプロペラが四十個、一つの狂いも破損もなく、平等に連なっていた。
窓は分厚く頑丈(がんじよう)そうで、どれも磨(みが)き込まれていた。ひさしは角が面取りしてあり、角度によっては一続きの波模様のように見えた。所々に、そういう丁寧さを隠し持った建物だった。
煉瓦(れんが)の門柱に貼(は)り紙がしてあった。
『事務員を求む
標本作製のお手伝いをしていただける方
経験、年令不問
この呼び鈴をどうぞ』
黒いフェルトペンの、癖のない字だった。四隅(よすみ)を止めたセロテープが乾燥し、今にも剥(はが)れそうだった。わたしは呼び鈴の白いボタンを押した。
遠くでベルの音がした。建物の奥に潜んでいる、深い森から響いてくるような音だった。たっぷりと時間をおいてから、扉が開いた。そこに立っていたのが、弟子丸氏だった。
「あの、貼り紙を見たんです」
わたしは門柱を指差して言った。
「まだ、間に合いますか?」
「ええ。大丈夫です。どうぞ、中へ」
彼は大きく手を広げ、わたしを奥へ招き入れた。
外観から受ける印象よりも、中はいくらか温かみがあった。床に張られた木材はコンクリートほどくすんでいなかったし、中庭から夏の終わりの陽射(ひざ)しが差し込んでいたからだ。案内されて廊下を進むうち、建物はロの字形になっていて、真ん中が緑にあふれた広い中庭になっていること、そしてその中庭に面して、同じ大きさの部屋がいくつもいくつも並んでいることが分った。そのうちの一部屋に、わたしは通された。
ソファーと、コーヒーテーブルと、五段チェストと、電気スタンドと、掛時計があり、それだけで一杯になるくらいのスペースだった。窓の両脇(わき)には水色のカーテンが束ねられていた。天井が高く、下がっているペンダントのシェードは、チューリップ型のすりガラスだった。
標本に関(かか)わるようなものは何も見当らなかった。そこで、面接が行なわれた。わたしたちは向き合って坐(すわ)った。
「はっきり言って、僕の方から聞かなきゃならない質問事項というのは、あまりないんです。もちろん、名前や住所くらいは知っておきたいですけれど、そういう形式的なことは、この標本室ではほとんど意味を持っていないんです」
弟子丸氏はお医者さんのような白衣を着て、ソファーの背にもたれかかり、腕を組んでいた。くたびれてはいないが、よく使い込まれた白衣のようだった。右のポケットと袖口(そでぐち)と胸元に、涙がにじんだような薄い染みがあった。
「むしろあなたの方に、いろいろとお聞きになりたいことがおありでしょう。あの貼り紙には、大切なことは何一つ書かれていませんでしたから」
彼はまっすぐにわたしを見た。濁りのない目だった。中庭からの光が目元を影にしていたが、それでも瞳(ひとみ)の形がくっきりと浮き出ていた。
「ええ、確かに」
わたしはその印象的な視線から目をそらすことができないまま、つぶやいた。そして一度深く息を吸い込み、言葉を選びながら続けた。
「つまりここは、何かの研究室、あるいは、博物館のようなものなのでしょうか」
「いいえ。全く異なります」
あらかじめわたしの質問を予測していたかのように微笑(ほほえ)みながら、彼は首を横に振った。
「ここでは、研究も展示も行なわれていません。役割は、標本を作り、保存すること、ただそれだけです」
「では、何のための標本なのでしょうか」
「共通の目的を見つけるのは難しいですね。なぜなら、ここでの標本を希望する人たちの事情は、おのおの全部違っているからです。すべてが、全く個人的な問題なのです。政治や科学や経済や芸術とは無関係です。僕たちは標本を作ることで、その個人的な問題と対面することになります。分っていただけますか?」
しばらく考えてからわたしは、いいえ、と答えた。
「ごめんなさい。思っていたよりも、ややこしいお仕事みたいで……」
「いや。あなたが戸惑うのも無理はありません。こういった種類の標本室は、どこにでもあるというものではありませんから、理解するには多少時間が必要でしょう。この標本室だって、看板を出しているわけでもなければ、電話帳に広告を載せているわけでもありません。本当に標本を必要としている人たちは、目をつぶっていてもここへたどり着けるのです。標本室の存在とは、そういうしのびやかなものでなければならないんです。
しかし、僕の説明の仕方もまずかったようです。原理を説明しようとして手間取ったんです。でも形式は、シンプルなんですよ。まず、標本にしてもらいたい品物を持って、来訪者が現われます。あなたは必要な手続きをしたうえでそれを受け取り、僕は標本を作製します。そして、それぞれの標本に見合ったお金を受け取ります。つまり、それだけのことです」
「わたしにも、できるでしょうか」
「もちろん。特別な技術なんていりません。一番大切なのは誠意なんです。どんなにちっぽけでささやかな標本でも、粗末にしないことです。慈(いつく)しむことが必要なんです」
彼は、いつくしむ、という言葉を、大事にゆっくり発音した。
中庭の緑の間を小鳥が通り抜けていった。空を斜めに飛行機雲が横切っていた。陽射しには夏の明るさがまだ十分に残っていた。風景も建物も、みんなまどろんでいるように静かだった。
二人の間にはコーヒーカップも灰皿もライターも筆記用具も何もなかったので、わたしは膝(ひざ)の上で掌(てのひら)を重ねたまま、ただじっとしているしかなかった。
改めて弟子丸氏を見ると、顔や身体つき全体の雰囲気は、彼の視線ほどには印象的でなかった。すべてがすっきりと整っていて、すきがなかった。肌(はだ)の色、髪の毛、耳の形、手足の長さ、肩のライン、声、どこを取ってもバランスが取れていた。なのになぜか、わたしを油断させない、危うい感じが漂っているのだった。
それはたぶん、彼が自分にまつわるあらゆるものを、見事なまでに排除しているからだろうと、わたしは思った。彼は腕時計をしていなかった。胸ポケットにペンもさしていなかった。あざやほくろや傷跡も、一つもなかった。
「いつも、こんなに静かなんですか?」
わたしは彼の胸元の染みに視線を落として言った。
「はい。標本を作るのは、静かな作業ですからね。それに、ここには僕の他に、老婦人が二人いるだけなんです」
「老婦人?」
「ここは昔、女子専用アパートだったんです。もう何十年も前の話ですけど。ところが段々に入居者が減り、みんな歳(とし)をとってきて、さびれてしまったんですね。それで最後まで残った二人のご老人はそのままで、わたしが標本室として買い取ったのです。標本とは無関係に、二人の老婦人がここで生活なさっているというわけです」
「標本を作るのは、あなたお一人なんですか?」
「ええ、一人で十分です。ただ、事務的なことをしてくれる人が必要です。僕はできるだけ作製に集中したいんです。前の事務員がいなくなってからもう一か月にもなるので、困っているんです」
そう言って彼は、しばらくチューリップ型のシェードのあたりを見やってから、すっと立ち上がり、中庭に通じる窓を開けた。ガラスが震え、乾いた風が流れ込んできた。
「以前はどんなお仕事をしていらしたのですか」
彼が言った。
「清涼飲料水の工場に勤めていました」
「そうですか。お給料は、その工場の二割増しでどうでしょう。ボーナスは夏と冬合わせ四か月分。勤務時間は八時半から五時まで。お昼一時間、午後三十分、休憩が取れます。もっとも、来訪者の数によって忙しさは違います。一日中、一人も現われない日だってあるんですから。休日は土曜日と日曜日と祝日。長期休暇も取れます。悪くない条件でしょ?」
わたしはうなずいた。彼は窓を背に立っていたので、陽射しが白衣を包み込み、輪郭をにじませていた。
「それでは決まりです。あなたにお願いします」
彼はそのにじんだ腕を前に伸ばした。わたしは彼に近づき握手した。指を全部自分の掌の奥へ閉じ込めてしまおうとするかのようにきつく、彼はわたしを握り締めた。
そのあとわたしは、何でもいいから一つ標本を見せてもらえないだろうかと、弟子丸氏に頼んだ。考えてみればわたしは、標本というものをじっくりと眺(なが)めたことがなく、具体的なイメージも何一つ持ち合わせていなかった。昔、理科の実験室かどこかで、蝶(ちよう)やカブトガニの標本を見たことはあったかもしれないが、弟子丸氏が言うようにここが一種の特別な標本室であるのなら、ここにふさわしい標本の実物を、見ておきたいと思ったのだった。
地下室にあるという標本技術室から、彼が持ってきたのは、きのこの標本だった。しかし、すぐにそれがきのこだと分ったわけではない。最初は何か、原始的な海の生物のように見えた。それが試験管に満たされた液体の中を、ゆらゆらと泳いでいたからだ。
「もっと近くで見てもいいですか?」
わたしは言った。
「どうぞ」
彼は試験管をわたしに手渡した。
試験管は細身で、掌におさまるくらい小さく、口にはコルク栓(せん)がしてあった。そのコルクのところに、たぶん標本を依頼した人のものであろう名前と、他に数字やアルファベットをタイプしたシールが貼ってあった。
きのこは全部で三つだった。軸の先まで入れても数ミリくらいの大きさしかなく、かさは楕円形(だえんけい)で、真ん中が赤血球のようにくぼんでいた。少しでも試験管を動かすと、それらはぶつかり合いながら、気ままに上下した。
液体は無色透明で、水よりは微(かす)かに濃度が高いようだった。きのこを包み込むようにしながら、その光沢のある黄土色を映し出していた。
「これが、標本ですか」
わたしはつぶやいた。
「そうです。このきのこを持ってきたのは、十六歳くらいの女の子でした。彼女は石けんの空箱に脱脂綿を敷いて、その中にきのこを三つ並べていました。一目見て、標本にするのなら急がなければ、と思いました。既に乾燥と腐食が始まっていたからです」
弟子丸氏もわたしも、試験管を見つめていた。
「『わたしの家の焼け跡に、生えていたきのこです』と、彼女は言いました。膝に置いた学生鞄(かばん)の把手(とつて)をきつく握り、うつむき加減で、緊張している様子でしたが、言葉遣いや態度はきちんとしていました。
彼女の左の頬(ほお)には火傷(やけど)の跡がありました。夕暮れの光の中では見落としてしまうくらいの、淡い傷跡でしたが、家が焼けたことと関わりのある傷だろうということは、すぐに察しがつきました。
『家が火事になり、父と母と弟が焼け死んで、わたしだけ助かりました。次の日、焼けただれた地面に、このきのこを見つけたんです。三つ寄り添って生えていたので、思わず摘み取ってしまいました。いろいろ考えて、ここで標本にしてもらうのが一番いいだろうと思いました。燃えてなくなってしまったものを全部、きのこと一緒に封じ込めてもらいたいんです。お願いできるでしょうか』と、彼女は手短かに事情を述べ、そのほか余計なお喋(しやべ)りは一切しませんでした。もちろん、僕はOKしました。彼女は標本室の意味を非常によく理解していました。彼女が、封じ込める、という言葉を使ったことで、それは分ります」
弟子丸氏は一つ、長い息を吐いた。
わたしはもう少し試験管を近づけた。かさの裏のひだまでが、ガラスに映って見えた。それは根気よく折り畳んで作られた、紙細工のようだった。ひだの透き間の所々には、胞子の粒がついていた。
「きのこはいつ、彼女に返されるんですか」
「返しません。標本は全部、僕たちで管理、保存するんです。そういう決まりになっています。もちろん依頼者たちは、好きな時に自分の標本と対面することができます。でも、ほとんどの人がもう二度とここへは現われません。きのこの彼女もそうです。封じ込めること、分離すること、完結させることが、ここの標本の意義だからです。繰り返し思い出し、懐(なつか)しむための品物を持ってくる人はいないんです」
試験管のガラスの向こうに、弟子丸氏が透けて見えた。彼の目はじっと動かなかった。いつの間にか翳(かげ)りはじめた光が、テーブルに影を作っていた。飛行機雲が夕焼けの中で消えようとしていた。
わたしはふと、彼の視線の先にあるのはきのこではなく、左手の薬指かもしれないと思った。普通にしていれば目立たない傷だが、その時薬指はコルク栓とガラスの縁の境に添えられ、彼の息が吹きかかるくらいのところにあった。彼は欠けてしまった肉片の輪郭をなぞろうとするかのように、目を凝らしていた。
わたしたちはしばらく黙っていた。さり気なく指の位置を変えてみようと思ったが、意識すればするほど指先が硬くなってしまった。弟子丸氏の瞳は、なかなか薬指を放してくれなかった。二人の間で、いつまでもきのこが揺らめいていた。
2
今日は朝からひどい暑さで、受付室にある旧式のクーラー一つでは、いくらつまみを最強にしても効きめがないほどだった。昼休みに買ってきたアイスクリームは、半分も食べないうちにぽたぽたと溶けはじめ、記録簿に記入するブルーのインクは、汗でにじみがちだった。そのうえこの部屋は日当たりがよすぎるので、一時間おきに陰を求めて机と椅子(いす)を移動させなければいけなかった。
この部屋は、女子専用アパートだった頃(ころ)は管理人室として使われていたもので、鍵(かぎ)を保管する金庫や、非常ベルのランプ板や、館内放送用のマイクがまだ残っていた。どれも骨董品(こつとうひん)店に並んでいるような、旧式のものばかりだった。
あまりの暑さのせいで来訪者は一人しかなく、あとは電話が二本あっただけだった。しかも大して重要でない電話ばかりで、「先日、尿路結石の標本をお願いした者ですが、今度一緒にお食事でもいかがですか」という中年男性からと、「おたくの玄関のガラス戸には悪い霊がついています。わたしにお祓(はら)いさせて下さい」というお婆(ばあ)さんからだった。もちろん二件とも、失礼にならないようにお断わりした。
たった一人の来訪者は、三十歳くらいの美しい女性だった。彼女が持ち込んだ品物は、楽譜だった。
わたしが椅子を勧めると、彼女は足を組んで坐(すわ)り、書類かばんから数枚の紙を取り出した。
「こんなものでも、標本にしていただけるでしょうか」
彼女は落ち着いた声で言った。わたしはそれを手前に引き寄せた。アイボリーがかった、しっかりした紙質の楽譜だった。
「もちろん大丈夫です。何の問題もありません」
と、わたしは答えた。
最初の頃は、こういう無機物を標本にするということに戸惑った。ここでは昆虫(こんちゆう)や植物というありふれた標本は少なく、標本処理を施さなくても十分保存できるようなもの、例えば髪飾りや、カスタネットや、毛糸の玉や、カフスボタンや、化粧ケープや、オペラグラスや、その他数えきれない種類の無機物を持ち込む人の方が多いのだった。
しかし段々、外の世界とは違う、ここの標本の意味合いに慣れてくると、もう滅多なことでは驚かなくなった。ビーカーに入った精液を突き付けられた時でさえ、今日と同じように微笑みながら、「もちろん大丈夫です。何の問題もありません」と答えることができた。
「以前ここを利用したことのある、わたしの遠い親戚(しんせき)から、話を聞いてやってきました。標本にしてもらうと、とっても楽になれるって……」
「ええ。確かにその通りです。ここは標本的救済の場所ですから」
「でもこれは、材料としては特殊すぎるんじゃないかと、心配なんです」
彼女は楽譜を指差して言った。マニキュアが光っていた。
ファンデーションのせいかもしれないが、彼女の頬は外の暑さを忘れさせるくらい、白くひんやりとして見えた。ブラウスの袖(そで)からのぞく腕も、さらさらとして汗ばんでいなかった。
「特殊すぎるなんてことはありません。安心して下さい。これなら、二日くらいで完成しますよ」
「でも、わたしがお願いしたいのは、楽譜そのものではなく、そこに記されている音楽、音なんです」
彼女はそう言ってうつむいた。
確かにそれは意外な申し出だった。わたしは一瞬言葉を飲み込み、楽譜の縁を指でなぞった。楽器を習ったこともなく、音楽の授業も苦手だったので、そこに書かれた音楽がどういうタイプのものなのかは、見当もつかなかった。五線の中に記された、一筆書きの渦巻(うずま)き記号や、天使の羽をつけたような音符が見えるだけだった。
ただそれが印刷されたものでなく、細身のペンで丁寧に清書されたものだったので、彼女にとって重大なものなのだろうという予想は立った。
いったい、音を標本にすることなどできるのだろうか。わたしはその、おと、というあやふやな言葉を繰り返し胸の中でつぶやいてみた。しかしあまり長い時間考え込んでいると、彼女を不安がらせる恐れがあった。それは標本室の理念から外れることだった。
「ここで標本にできないものなんて、何一つありませんよ」
戸惑いを悟られないように注意しながら、わたしは言った。
「そうですか」
彼女は安堵(あんど)したように、微笑(ほほえ)みを見せた。
「皆さん誰でも、最初は自分の品物に不安を持っていらっしゃるんですよ。そういうものなんです。その不安を封じ込めるために、標本があるんですから」
わたしは弟子丸氏に教えられた通りの言葉を繰り返した。
「ただ、標本の形態としては、この楽譜を借りなければならないと思うんです。もちろん実体は音です。標本技術士にその音を伝えるための道具として、楽譜を手放すことはできますか?」
「はい」
彼女はうなずいた。
「じゃあ、手続きをしますので、しばらくお待ち下さい」
わたしは机の引き出しから記録簿を取り出し、必要事項を記入し、楽譜に通し番号をつけた。『26—F30774』だった。それから和文タイプで、標本に貼(は)るシールを作った。
「二日後のお昼までに完成します。完成品は必ず、ご自身で確認にいらして下さい。その時、お代金をいただいて、すべて完了です」
「おいくらくらい、かかるでしょうか」
「それは標本技術士が決めますので、今はっきりとは申し上げられませんが、だいたいレストランのフルコースのフランス料理一人分、というところでしょうか」
わたしは楽譜をそろえ、記録簿と一緒に引き出しにしまった。
「思っていたよりも、ずっと簡単なんですね」
すっきりと何もなくなった机の上に視線を落とし、彼女は言った。
「ええ、簡単なんです」
わたしは微笑んだ。
そのあとわたしたちは、氷のたくさん入ったアイスティーを飲みながら、しばらくお喋りをした。彼女はぽつりぽつりと、楽譜にまつわる思い出話をした。
「わたしの恋人は作曲家でした。誕生日にこの曲をプレゼントしてくれたんです。ビロードで身体(からだ)を包むような、優しい曲です。クリスマスには水彩絵の具を、旅行のお土産にはカメオのハット・ピンをもらいました。彼と別れたあと、絵の具は洗面所に流し、ハット・ピンは土に埋めました。でも音だけは、どうしても消せなかったんです。……」
それは、ありふれてはいるが、切ない話だった。
話し終えると彼女は、残ったアイスティーを飲みほし、ごちそうさまでした、と言って夏の陽射(ひざ)しの中へ消えていった。
五時がきて後片付けをしていると、地下室から弟子丸氏が上がってきた。
「上は暑いね。今度電気屋に、クーラーの調子を見てもらった方がいいな」
そう言いながら彼は机の角に腰掛け、引き出しから一日分の品物を取り出した。
「今日はこれだけ?」
「はい。楽譜に書かれた音楽を、標本にしてほしいという要望です」
「そう。じゃあ明日、309号室婦人に頼んでピアノを弾いてもらおう」
309号室婦人というのは、女子専用アパート時代から残っている二人の老婦人の一人だった。昔はピアニストだったらしく、立派なピアノを持っている。
わたしは音の標本というつかみどころのない依頼に、彼がどう反応するか心配だったが、彼の様子はいつもと同じだった。わたしはいくらかほっとした。
「ところで、今日ちょっと、時間を取ってもらえないかな。話があるんだ」
彼は机の脚を靴(くつ)のかかとでコツコツ叩(たた)きながら、こちらを見ていた。彼はわたしに話し掛ける時、こんなふうにまっすぐ瞳(ひとみ)を向けてくるので、わたしはいつも目のやり場に困った。言うべき言葉が胸の奥に引っ掛かって、息苦しいような気分になるのだった。
「はい」
わたしは小さな声で答えた。
弟子丸氏は何の説明もせず、「僕についてくるように」とだけ言った。彼が案内したのは、一階の一番奥にある浴場だった。そこに、女子専用アパート時代の浴場が残っていることは知っていたが、中に入るのは初めてだった。
彼は曇りガラスの入った引き戸を開けた。それはあちこちで引っ掛かり、ガタガタとくぐもった音をたてた。
「どうぞ、奥へ」
彼はわたしを招き入れた。
中は思っていたより傷(いた)んでいなかった。脱衣場には体重計や、鍵つきのロッカーや、籐編(とうあ)みのかごがきちんとした形で残っていたし、浴室の鏡や、蛇口(じやぐち)や、ブルーのタイルはまだ十分にきれいだった。今すぐにでも使えそうな気がした。ただ、すっかり乾燥し、白っぽく粉をふいているようにさえ見える浴槽(よくそう)の底は、がらんとして淋(さび)しげだった。
わたしたちはその浴槽の縁に並んで腰掛けた。ひんやりとしたタイルと、天窓の透き間から下りてくる風のおかげで、受付室よりずっと涼しかった。
「ここは僕の、秘密の安息所なんだ。女の人を招待するのは、初めてだよ」
彼の声は響き合い、その余韻がいつまでも天井に残っていた。
「それは光栄です」
わたしの声が彼を追いかけ、天井の隅(すみ)で重なり合った。
「仕事のあとはよくここへ来て、しばらくぼんやり過ごす。標本作りは、ある種の神経を酷使するからね」
「そうですね。とても、繊細なお仕事だから」
「ところでここは、デートの場所としても最適だと思わないかい? 誰にも邪魔されないし、清潔だし、音が反響するから、こんなふうに顔を寄せ合って小さな声でささやかなければいけない」
彼がふざけて耳に息を吹きかけてきたので、わたしはびっくりして浴槽の中へ落ちそうになった。彼は笑いながらわたしの肩を押さえた。
両横の壁には蛇口とシャワーのノズルと石けん受けが、等間隔で並んでいた。数えてみると十五個ずつあった。それらはあまりにもすっきりと乾いていたので、浴室のための設備というよりは、前衛的な装飾品のように見えた。
一面をおおっているブルーのタイルは所々に濃淡があり、よく見るとそれが蝶々(ちようちよう)の模様になっていた。どうして浴室に蝶々なのか不思議だったが、ブルーの色合いが上品だったので、奇異な感じはしなかった。蝶々たちは排水口の上や浴槽の側面や換気扇の隣や、あちらこちらに止まっていた。
「君は今年、何歳になった?」
笑いがおさまってから、不意に彼が言った。
「二十一です」
わたしは答えた。
「前から気になっていたんだけど、二十一にしては、君のはいている靴は幼すぎる気がするんだ」
わたしは浴槽の内側でぶらぶらしている自分の足先を見た。その靴はまだ清涼飲料水の工場で働いていた頃に、村の靴屋で買った安物だった。茶色のビニール製で、ヒールは低く、かなりすり減っていた。
「そうですね。確かにあまり、お洒落(しやれ)じゃないわ」
「君の足元を見るたび、いつも気になっていたんだ。君にはもっと、別のタイプの靴が似合うんじゃないかと思ってね」
「そうでしょうか?」
「もちろんさ。僕に、新しい靴をプレゼントさせてほしい」
きっぱりとした口調で彼はそう言うと、脇(わき)に置いてあった紙袋から箱を取り出し、わたしに渡した。
蓋(ふた)を開けると、黒い革靴が一足入っていた。わたしは彼に促され、それを手に取った。シンプルなデザインで、かっちりした作りの靴だった。つま先は優美にカーブし、甲の所には小さめの黒いリボンがついていた。ヒールは五センチくらいあり、細くて硬かった。
「こんな高価な靴を、どうしてわたしに?」
「君は一年間、標本のためによく働いてくれた。これまで何人も事務員が変わったけど、君ほど誠実にやってくれた人はいなかった。おかげで僕も助かってる。そのお礼だよ。僕の選んだ靴を、君にはいてもらいたいんだ。気に入らない?」
「とんでもない。わたしにはもったいないくらい、素敵な靴です」
「よかった。じゃあ、さっそくはいてみて」
そう言うと彼は浴槽の底に下り、わたしの古い靴を脱がせた。
彼は左手でわたしのふくらはぎをつかみ、右手で古い靴をかかとから抜き取った。それはあっけないほどに何の感覚も残さず、足から滑り落ちていった。
むき出しにされたわたしの足は、彼の手の中にあった。彼があまりにもしっかりとふくらはぎを握っていたせいで、わたしは身動きできないでいた。タイルのつぎめに指先を引っ掛けたまま、ただじっと底に落ちた古い靴を見ているしかなかった。それは片方は逆さまになり、片方は横向きに転がり、羽根をむしり取られた二羽の小鳥の死骸(しがい)のように見えた。
それから彼は新しい靴を右足からはかせていった。かかとをつかみ、つま先を靴の奥まで一息に滑り込ませた。かかとに感じる彼の指は硬く冷たかったが、靴の中はなま温かくしっとりとしていた。あらかじめ定められた儀式を司(つかさど)るように、彼の手の動きにはすきがなかったので、わたしは小指の先さえ自由に動かすことはできなかった。
新しい靴は驚くほどぴったり足になじんだ。どこにも無理がなく、足全体が優しく包み込まれているようだった。
「まあ、ぴったりだわ」
わたしは言った。
彼は何も答えず、まだしばらく足を放そうとしなかった。靴の表面を撫(な)でたり、リボンをきつく結び直したりしていた。
「まるで、わたしの足型を取ってから作った靴みたい。でもどうして寸法が分ったんですか」
「僕は標本技術士だよ。足の寸法くらい、見れば分るさ」
彼はそう言ってようやく足を放してくれたので、わたしは足首を回したりつま先を動かしたりして、新しい靴の感触を確かめることができた。
「いいかい、この古い靴はもう捨てるんだ」
彼は転がっていた靴を片手でつかみ、つぶれるほど強く握り締めた。それはもう、ただの古ぼけたビニールの塊になってしまった。あっという間の出来事で、逆らうことはできなかった。
「少し、歩いて見せてくれないか」
彼はわたしを浴槽の底に下ろし、自分は縁に戻って腰掛けた。
「二、三周、ぐるぐる回ってごらん」
わたしは下から彼を見上げ、どうしていいかしばらく戸惑っていた。位置が少しずれただけで、浴室の印象は変わって見えた。目の高さにちょうど、彼が握りつぶしているビニール靴があり、彼の背中の向こうには夕焼けの映った天窓があった。いつもはほっそりとしている白衣の両足が、近くでは強固で大きなものに見えた。浴室はもう、薄暗くなりはじめていた。
「さあ、早く」
わたしには彼の申し出を断る理由が思いつかなかった。靴をプレゼントしてもらったお礼に歩いてみせるのは、何でもない当然のことのようにも思えたが、浴槽の底というのは、特殊すぎる気がした。
いつまでじっとしていても、彼は許してくれそうになかったので、わたしは時計回りの方向におずおずと歩き始めた。ヒールのコツコツという音が、浴室中に響いた。
歩くというありふれた動作が、ここでは難しいことに思えた。底は平らではなく、排水口に向かって緩やかに傾いていたし、タイルの欠けた所にヒールの先が引っ掛かるし、何より彼がひとときもわたしから目を離さないので、身体のあちこちがバランスを崩してぎくしゃくしてしまった。
ただ靴は、どんなわずかな圧迫も透き間もなく、しなやかで軽かった。これだけ自分にぴったりくる靴を、今まではいたことはないと、思えるほどだった。
できるだけ余計なことを考えないよう、わたしはリボンのあたりに視線を落とし、歩数を数えながら歩いた。二十三歩で一周し、きっちりその倍で二周した。途中で四回、蝶々を踏んだ。
「これからは、毎日その靴をはいてほしい」
三周め、十四歩のところで彼が言った。わたしは歩きながら、黙ってうなずいた。
「電車に乗る時も、仕事中も、休憩時間も、僕が見ている時も見てない時も、とにかくずっとだ。いいね」
彼は右手を振り挙げ、ビニール靴をタイルに打ちつけた。空気の裂けるような音が足元から響いてきたが、仕草は決して荒々しくなく、白衣の腕が大きくしなってむしろ優美に見えるくらいだった。わたしはその音を、まだまだ歩き続けなければならない合図のように聞いた。浴槽の底は、もう闇(やみ)に満たされようとしていた。
3
次の日、309号室はちょっとした音楽会という風情(ふぜい)になった。
弟子丸氏とわたしが309号室婦人に例の楽譜を見せ、ピアノで弾いてもらえないだろうかと頼んだ時、彼女は最初、困ったような表情を見せた。
「ここしばらく、ピアノに触っていないものですからねえ。指が動くかどうか……」
彼女は口ごもり、指を曲げたり伸ばしたりした。
「お願いします。標本のために、どうしてもあなたのお力が必要なんです」
弟子丸氏が言った。309号室婦人は小柄(こがら)で、綿のように白い髪を小さくまとめ、涼しげな藍色(あいいろ)のワンピースを着ていた。指は皺(しわ)だらけだったが、のびやかな輪郭や爪(つめ)の形や関節の柔らかさに、昔ピアニストだった頃の面影(おもかげ)が残っていた。
結局彼女は承知してくれたのだが、実際演奏してもらうには、準備が必要だった。
309号室は女子専用アパートの典型的な一室で、五畳くらいの洋室に、コンパクトなキッチン、作り付けのベッド、洗面台、収納タンスなどがセットになっていた。ただ、あいたスペースのほとんどはピアノが占めており、他のものはすべてその大きな影に隠れていた。
しばらく触っていないと彼女が言っていたとおり、ピアノの上にはペン立てや、置き時計や、キャンディーの缶(かん)や、オルゴール付きの宝石箱や、毛糸で編んだポットウォーマーや、古い写真の束や、メトロノームや、とにかくあらゆるものが並んでいて、容易には蓋も開けられない状態だった。まず、それらをどこかに移さなければいけなかった。
どこかと言っても場所は限られているので、ベッドか床の上ということになった。わたしたちは一つ一つの品物を大切に運び、婦人に借りたピアノ専用の布で埃(ほこり)をぬぐった。部屋の片隅で、ほとんど洋服置場のようになっている椅子(いす)を引っ張り出し、座布団(ざぶとん)をのせ、ピアノの前にセットした。
その間婦人はキッチンで、楽譜を読んでいた。
いよいよ演奏が始まる段になって、ここのもう一人の住人、223号室婦人も招待されることになった。彼女は元電話交換手で、今は毎日部屋に閉じこもって手芸ばかりしている、親切なおばあさんだった。
弟子丸氏は試験管立てをピアノの端に置き、そこにかなり大きめの、空の試験管を一本たて掛けた。場所が狭いうえに物があふれていたので、わたしたちはそれぞれに工夫して、腰を下ろすのに適当な場所を確保しなければいけなかった。223号室婦人は扇風機と鏡台の間に正座し、弟子丸氏は収納タンスの横板にもたれ、わたしはベッドの上に並べたキャンディーの缶や宝石箱が落ちないよう注意しながら、そっとその角に腰掛けた。
309号室婦人はまずうやうやしく一礼し、楽譜を広げ、ワンピースのポケットから眼鏡を取り出してかけた。しばらく鍵盤(けんばん)を見つめたあと、そろそろと指を載せた。
それは不思議な曲だった。依頼人はビロードで身体を包むような優しい曲……と言ったが、わたしにはもっと複雑で乾いた感じに聞こえた。メロディーが思いもよらないところへ飛んだり、眠くなるくらい同じフレーズが続いたり、急にテンポが変わったりして、予測がつかなかった。ほんの少しどこかが狂うと、全部ばらばらになってしまいそうだったが、どうにか危ういところでバランスを保っていた。
彼女はしくじらずに演奏を続けていたが、滑らかに磨(みが)かれた鍵盤の上では、指は痛々しいほどに皺だらけで、楽譜を覗(のぞ)き込む目も弱っている様子だった。この音の危うさが、曲本来の姿なのか、それとも歳老(としお)いた指のせいなのか、本当のことは分らなかった。しかし、標本にとってはどちらでも構わなかった。
223号室婦人は、明らかに退屈している様子だった。鏡台の下に転がっていたヘアピンで床をつついたり、扇風機の風向きをあちこち変えてみたりしていた。
弟子丸氏は、音楽そのものにはあまり興味を示していないようだった。腕を組み、遠くを見るような目をして、じっとしていた。
ベッドから垂らしたわたしの足と、彼との間は、ほんの数十センチしか離れていなかった。彼の息遣いさえ、足で感じ取れそうだった。きのうもらった靴(くつ)は、この部屋の玄関口に脱いであった。わたしは時々、靴の方を見た。
相変わらず暑く、外は上天気だった。ベランダから吹いてくる風は弱々しく、309号室婦人の真っ白い後れ毛を、微(かす)かに揺らすだけだった。
何の前触れもなく、不意に曲は終わった。309号室婦人は再び立ち上がり、一礼した。わたしたちはささやかな拍手をした。
弟子丸氏は楽譜を筒状に丸め、試験管の中にしまい、コルクで栓(せん)をした。それから『26—F30774』番のシールをコルクに貼(は)り、依頼人の望む音の標本は完成した。
弟子丸氏に言われたとおり、わたしは毎日、黒い革靴をはいて標本室に通った。色の薄い夏服には、それは重々し過ぎる感じだったが、浴場で交した弟子丸氏との約束を破るわけにはいかなかったので、白い麻のワンピースに黒い革靴という奇妙な組合せになっても、仕様がないのだった。
朝、革靴に足を突っ込む時はいつも、ふくらはぎをつかんでいた彼の指の感触を思い出す。痛いわけではないのに、決してわたしを自由にしない不思議な感触だ。
靴は軽やかで、歩きやすかった。ただある瞬間ふと、両足に透き間なく吸いついてくるように感じることがあった。そんな時は、彼に足だけをきつく抱き締められているような気分だった。
あの日以来わたしたちは、しばしば浴場でデートするようになった。デートというにはあまりにも、いろいろなことが変わりすぎていたが、弟子丸氏がわたしを求めていることは確かだったし、わたしもそれを拒否しなかった。
わたしはまず、浴場のあの“感じ”が気に入っていた。例えば、誰にも乱されていない、しんと張りつめた空気の中を、彼と手をつないで進んでゆく感じや、蛇口(じやぐち)もシャワーも換気扇も洗面器も、何もかもが眠りについているなかで、わたしたち二人だけが呼吸している感じや、どんなささいな音や声でも、なかなか消えずにタイルの壁で響き合っている感じのことだ。
わたしたちはたいてい、浴槽(よくそう)に腰掛けていろいろな話をした。話している間に、段々天窓に映る空の色が変わってゆき、夜がやって来た。すると彼は配電盤のレバーを上げ、明りをともした。
明りがつくと浴室は、また違った雰囲気(ふんいき)になった。オレンジがかった光は広い浴室全部を照らすには弱すぎ、四隅(よすみ)のあたりではぼやけていたが、浴槽の底のタイルはつやつやと照らし出していた。すりガラスには中庭の緑が影になって映り、風が吹くとゆるやかに揺れた。
「ここが昔、本当の浴室だった頃(ころ)のことを想像すると、妙な気分になるよ」
弟子丸氏が言った。
「すべてが湯気の中に霞(かす)んで見えて、ガラスは水滴に濡(ぬ)れ、浴槽はお湯で満ちている。笑い声や、水の流れる音や、石けん箱の落ちる音が響き合って、女の人が何人も何人も、蛇口の前に並んで身体(からだ)を洗っている。しかもみんな、裸なんだ」
「その中に、309号室婦人も、223号室婦人もいたのね」
「そう。だけど、あんなおばあさんじゃない。二人とも今の君と同じくらい若いんだ。一人は指を丁寧に洗う。石けんをたっぷりつけて、一本ずつもみほぐしながら、ぴかぴかに磨き上げる。もう一人はのどだ。一日中電話に向かって喋(しやべ)り続けて、くたくたに疲れているから、のどをシャワーで温めるんだ」
「そんな時代があったなんて、信じられないわ」
「今ではすべてが乾ききっている。一粒残らず水滴も泡(あわ)も消えてしまった。ピアニストの指も、電話交換手の声も歳老いて、残ったのは僕たち二人だけだ」
そう言って彼はわたしの手を引っ張って浴槽の底に下ろし、洋服を脱がせた。ブラウスのボタンを上から順番に一個ずつ外してゆき、フレアースカートのファスナーを下げた。花びらが散るように、それらは身体からはがれ落ちていった。
彼の指は冷静に的確に動いた。衿(えり)の下に隠れた一番上のボタンも、フレアーのひだの奥にあるファスナーも、すぐに探りだした。同じようにして、わたしの小さな下着も取り去った。
すべての手順があらかじめ決められているかのようだった。何もかも彼が取り仕切った。わたしはただじっと立ちつくし、ボタンやホックが外れるわずかな音に耳を傾けるくらいしか、ほかにすることがなかった。
とうとうわたしは、裸にされた。たった一つ、黒い革靴だけを残して。
どうして彼が靴を脱がしてくれないのか、分らなかった。彼の指が止まったあと、茶色いビニール靴を脱がされた時と同じようにしてくれるのを、わたしは待っていた。しかしいつまで待っても、彼は革靴に手を伸ばそうとはしなかった。
オレンジの光にさらされたわたしの肩や胸は、ゆっくりと冷えてゆくのに、靴に包まれた足先だけはいつまでも温かかった。自分が足首のところで、二つに分離してしまったようだった。黒いリボンが甲の真ん中に、ぽつんと止まっていた。
そのあとわたしたちは、浴槽の底で抱き合った。
「星が見えるね」
と、彼が言った。わたしの髪に彼の息がかかった。天窓に小さな星がいくつも散らばっていた。
「明日(あした)もまた、暑くなるかしら」
「たぶんね」
「暑い日が続くと、標本の依頼人があまり来てくれないわ」
「涼しくなれば、また忙しくなるさ」
「本当?」
「ああ。毎年そうさ。夏は静かなんだ」
わたしたちはしばらく、とりとめのない話をした。
彼はわたしをとてもきつく抱いていた。でももしかしたら、抱くという言い方は不適当なのかもしれない。今、二人の身体がどういう具合になっているのか、自分でもうまく説明できなくて、わたしは混乱していた。こんなふうに誰かと——しかも閉鎖された浴室で——触れ合うことなど、今までなかったからだ。
相変わらずわたしは靴だけを身に付け、彼は白衣を着ていた。彼が取り去った衣服は、浴槽の片隅で丸まっていた。わたしたちは排水口の方に足を向け、タイルの上に直接横になっていた。彼は大きな腕でわたしを包んでいたが、身体の感触を味わおうとする柔らかい抱き方ではなく、わたしを自分の内側にすっぽり密着させるような、胸苦しい抱き方だった。
タイルと白衣がわたしを締めつけていた。苦しいけれど辛(つら)くはなかった。目を閉じ、耳を澄ますと、夜の闇が中庭を漂う気配が感じ取れた。
「君は何か、標本にしてもらいたいものを持っているかい?」
不意に彼が聞いた。わたしたちはあまりにもぴったりと身体を寄せ合っていたので、お互いの表情を見ることはできなかった。彼の声が耳元を通り過ぎてゆくのを、感じるだけだった。
「分らないわ」
しばらく考えてから、わたしは答えた。
「本当はそういうものを持っているのに、自分では気づいていないだけなのかもしれないし、最初から標本なんか、必要としていないのかもしれない」
「標本を必要としない人間なんていないさ」
「そうかしら」
「この標本室と出会える人間は限られているけど、本当は誰でも、標本を求めているものなんだ」
「わたしも? それから、あなたも?」
「ああ」
彼はうなずいた。
わたしの目の前に、ちょうど白衣の胸元の、淡い染みがあった。それは微かに薬品の匂(にお)いがした。わたしの声は全部、白衣の中に吸い込まれていった。
「何を標本にしたいか、よく考えてみるんだ。必ず何かあるはずだから」
彼はわたしを包む両腕に力をこめた。腰骨(ようこつ)や肩甲骨(けんこうこつ)やふくらはぎに当たるタイルが、ざらざらしていた。
わたしは言われたとおり、標本について考えてみた。目を閉じると、一番最初に見たきのこの標本が浮かんできた。試験管のガラスには、薬指が映っていた。
「少し、考え方を変えてみよう。今までで一番、悲しい思いをしたことは何?」
わたしは目を開けた。
「悲しい思い……。そうねえ、考えてみたらわたし、それほど悲しい思いをしたことがないような気がする。幼稚な悲しみはいくらでもあったけど、本当の悲しみにはたぶん、まだ出会っていないのよ」
「じゃあ、一番、みじめな思いをしたことは?」
「みじめ……。難しい言葉だわ」
わたしは口ごもり、ため息をついた。遠くでピアノの音がした。あの演奏会以来、309号室婦人はまた少しずつ、ピアノを弾きはじめていた。
「一番、恥ずかしい思いをしたことは?」
「…………」
ピアノの音は途切れ途切れに聞こえた。
「一番、痛い思いをしたことは?」
「…………」
彼の声とピアノの響きが耳の奥で溶け合った。背中にあたるタイルが痛くて、向きを変えたいと思ったが、二人の間にそんな透き間は一ミリも残っていなかった。わたしの足は白衣の中で縮こまっていた。そして靴は、しっかりと足先に吸いついていた。
「さあ、考えて。一番、痛い思いをしたことだ。痛くて、苦しくて、怖い思いだよ」
彼の口調はずっと変わらず穏やかだったが、言葉の一つ一つは冷やかだった。そういう言葉を彼は、いくつもいくつも隠していた。いつまで黙っていても、彼はあきらめてくれそうになかった。
「左手の薬指の先を、なくした時です」
わたしは、そうつぶやいた。
「それは、どこへ消えてしまったの?」
わたしの声の残響が全部消えてから、彼は言った。
「サイダーの中へ落ちたんです」
「サイダーの中?」
「そう。サイダー工場で、機械に挟(はさ)まれてしまったんです」
「それから、どうなったの?」
「どうにもなりません。サイダーを桃色に染めながら、ゆらゆらと落ちてゆく自分の指を、ただぼんやり眺(なが)めていただけ」
「じゃあもう、君の薬指は、元に戻らないんだね」
わたしは白衣の胸元に頬(ほお)を押しつけながら、うなずいた。
それ以上彼は何も喋らなかった。あまりにも長い時間動けなかったので、わたしは彼の中で、標本にされてしまったような気分だった。
4
夏の陽射(ひざ)しが去り、秋風が吹き始め、ようやく黒の革靴が似合う季節になると、弟子丸氏が言ったとおり、依頼人の数は少しずつ増えてきた。彼はほとんど地下の標本技術室にこもりきりで、夜、浴場で会う以外、なかなか顔を合わせる機会はなかった。
保管すべき標本の数も増える一方で、わたしが初めてここへ来た時は、標本保管室として101号室から302号室までが使われていたが、——もちろん、223号室はとばしてある——秋の訪れとともに303号室も保管室の仲間入りをすることになった。わたしたちはまず窓を開けて風を通し、埃(ほこり)を払い、拭(ふ)き掃除をした。それから、部屋の大きさに合わせて特別注文してあるというキャビネットを、壁に取り付けると、標本保管室の出来上がりだった。何もかも、わたしたち二人だけでやった。
「ここにはいったい、いくつ部屋があるのかしら」
作業の合間に、わたしは彼に尋ねた。
「430号室までさ」
キャビネットのねじをドライバーで締めながら、彼は答えた。
「ここの標本が減ることはないの?」
「それはありえない」
「全部保管室にして、それでもまだ足りなくなったらどうするの?」
「図書室がある。卓球台を処分すれば遊戯室も使える。それに、浴場も」
「浴場が保管室になってしまったら、わたしたちはどうなるの?」
「どうにもならないさ。何も変わらない。それに、ここは君が想像している以上に懐(ふところ)が深いんだ。心配はいらないよ」
そう言って彼は二つめのねじを締めた。
雨の降る朝、一人の少女がやってきた。長い髪を後ろで一つに束ね、オーソドックスなデザインのワンピースを着ていた。彼女は傘(かさ)の先からこぼれ落ちる雨のしずくを気にしながら、受付室のドアを開けた。
「よくいらっしゃいました。傘はそのあたりに、たてかけておいて下さって結構ですよ。傘立てがないものですから、ごめんなさい。さあ、どうぞ、お掛けください」
わたしは言った。
「失礼します」
彼女は礼儀正しくお辞儀をし、わたしの向かいに腰掛けた。
しばらく彼女は目を伏せたまま、黙っていた。髪の結び目のところに、雨のしずくが光っていた。膝(ひざ)の上に置いた指を何度も組み替え、緊張している様子だった。
「何か飲み物を作るわ。温かいものがいいかしら」
わたしは奥のキッチンに入り、冷蔵庫に作り置きしていたレモネードを温め、ピーナッツチョコレートと一緒に出した。ここのキッチンは小さいのだが、どんな依頼人の好みにも応(こた)えられるように、あらゆる種類の飲み物とお菓子がそろえられていた。依頼人の雰囲気から、その人に一番ふさわしい飲み物とお菓子を選ぶのも、わたしの仕事の一つなのだ。サイダーだけはなかったのだが。
「いただきます」
彼女はコップを両手で包み、そろそろと口をつけた。
「実はわたし、ここへ来るのは初めてではないんです」
レモネードを一口飲み込んでから、彼女は言った。
「それじゃあ、自分の標本に会いにいらしたのね」
「いいえ、違うんです」
彼女は首を横に振った。その時わたしは、視界の隅にふと引っ掛かるものを感じた。決して不快な感じではなく、遠慮深くわたしを引き止めようとする、ひそやかな感じだった。わたしは二、三度まばたきをした。
彼女の頬には火傷(やけど)の跡があった。でも決して、ひどいものではない。模様の入ったベールの切れ端が被(かぶ)さっているような、目立たない、淡い火傷だった。その傷跡を透かして、彼女の頬の白さが見えてきそうなくらいだった。
「一人で二つ、標本をお願いすることなんて、できるでしょうか」
わたしは彼女が、弟子丸氏に初めて見せてもらったあのきのこの標本を、依頼した少女だと直感した。
「一年くらい前に、ここで標本を作ってもらったことがあるんですけれど……」
チョコレートを入れたガラスの器のあたりに視線を落とし、彼女は言った。
「また別の何かを、標本にしたくなったんですね」
わたしは火傷の跡を見つめたまま言った。
「はい。でも、無理なお願いだったらいいんです。今まで、二つも標本を依頼した人はいましたか?」
「そうですねえ。わたしはまだここへ来てそれほど長くないので、はっきりしたことは分りませんが、記録簿を調べればそういう前例は出てくると思いますよ。でも仮に前例がなかったとしても、心配はいりません。あなたの依頼を拒否する理由は、何一つありませんから。標本室には規約というものがないんです。標本室の内側にいる限り、すべてが解放されているんです」
「ああ、よかった」
初めて彼女は少女らしい明るい声を出し、二口めのレモネードを飲んだ。
「もしかしたら、ここであなたが最初に標本にしたのは、三つのきのこではありませんでしたか?」
「はい、そうです」
彼女は答えた。
「やっぱり。あの標本のことはわたしもよく憶(おぼ)えているわ。ここへ来た時、一番初めに見せてもらったのが、その標本だったの。保存液の中でつやつや光って、生きているみたいにゆらゆら動いて、きれいだったわ。今でも302号室に、きちんと保管されています。保存状態はとてもいいですよ。ひだの一つ一つ、胞子の一粒一粒まで変わりありません。お持ちしましょうか」
「いいえ」
彼女はレモネードから手を離し、立ち上がろうとしたわたしを押しとどめた。
「いいんです、きのこのことは」
あの標本にはもう、興味がない様子だった。
雨はまだ降り続いていた。彼女の傘が床に小さな染みを作っていた。子犬が一面にプリントしてある、赤い把手(とつて)のかわいらしい傘だった。どこか遠くでサイレンの音がしていたが、すぐに聞こえなくなった。
わたしは一つ咳払(せきばら)いをし、ピーナッツチョコレートの入った器を彼女の正面に持っていって、食べるように勧めた。彼女はしばらくチョコレートを、あるいはガラスの器を眺めていたが、手をのばそうとしなかった。天井の明りが頬の模様を照らしていた。
「いずれにしても、二度も利用して下さるなんて、標本室の人間とすれば、ありがたい話です。ここの標本を気に入って下さった証拠ですもの」
彼女はあいまいにうなずいた。
「それで、今回新たに標本にお望みの品物は何ですか」
わたしは水を向けてみた。彼女はうつむいたまま、束ねた髪の先を撫(な)でながら、しばらく黙っていた。雨の音だけが聞こえていた。わたしは辛抱強く待った。
「この、火傷です」
透き通った声で、彼女は言った。
神秘的なおまじないをとなえるように、わたしはその言葉を胸の中で繰り返した。
火傷、火傷、やけど、ヤケド……。
雨の音に溶けて、彼女の声がいつまでも響いていた。
彼女は束ねた髪が邪魔にならないよう、火傷のある頬とは反対の肩に髪を垂らし、わたしに横顔を見せた。最初の頃(ころ)に比べると、彼女の頬はいくらか赤みを帯び、その模様を余計繊細に浮き上がらせていた。細い血管の一筋一筋が、透けて見えているかのようだった。耳も目元も唇(くちびる)も、その頬ほどには魅惑的でなかった。わたしはそこを指先で撫でてみたい気持にかられ、それを押さえるために、小さなため息を一つついた。
結局わたしはどうしていいか分らず、地下室の弟子丸氏を呼びに行った。
「雨の中、よくいらっしゃいましたね」
弟子丸氏は両手を白衣のポケットに突っ込み、管理人室時代の金庫にもたれてそう言った。彼女は口元だけで微笑(ほほえ)んだ。
弟子丸氏が姿を見せても、彼女の様子に変化はなかった。緊張はしているようだが、おどおどした感じはなく、もの静かで、チョコレートの器のあたりから、あまり視線を動かさなかった。わたしたちにちょうどいい角度で頬の模様を見せられるよう、意識しているかのようだった。
「もう一度、確認したいのですが、火傷の跡を標本になさりたいのですね」
彼は右手をポケットから出し、彼女の頬に向けてのばした。二人の間には距離があったけれど、指の表情があまりにも優しく、慈(いつく)しみに満ちていたので、彼が傷跡をそっと撫でているかのような錯覚を呼び起こした。
「そうです」
いつまでも彼女は、頬の角度を変えようとしなかった。
「大事な問題が一つあります。標本にするということと、傷跡を治すということは、全く別の事柄(ことがら)です。それはお分りですか?」
「もちろんです。標本をお願いすることで、傷跡を消したいだなんて思っていません。わたし、きのこの時の経験がありますから、普通の人よりはいくらか詳しく、標本について知っているつもりです。わたしが望んでいるのは、標本そのもの、それだけです」
「分りました。そういうことなら、あなたのご希望をかなえられると思います。何と言ってもここは、標本室なのですから」
弟子丸氏は言った。彼女は安堵(あんど)し、髪の束を元の位置に戻した。
彼の標本室に対する定義は、依頼人や品物の種類によって、そのつど微妙に変化していくが、依頼人を安堵させるという点においてはいつも同じだった。大げさでなく、卑下しすぎることもなく、冷静で、しかも十分な思いやりを忘れないのだった。
「それではあなたを、標本技術室へご案内します」
そう言って彼は、大事な壊れ物を包むように彼女の肩に腕を回し、椅子(いす)から立ち上がらせた。彼女は素直に従った。
「標本技術室へ、行くのですか……」
独り言のようにわたしはつぶやいた。彼は何も答えなかった。わたしはまだあの地下室へ行ったことがなかった。廊下の突き当たりにある、樫(かし)の木でできた重い扉(とびら)の向こうが、どうなっているのか知らなかった。
「記録簿の記入とシールのタイプ打ちは、頼んだよ」
戸口のところで振り返り、彼は素っ気なくそう言い残した。
長い廊下を進み、樫の木の扉の向こうに消えてゆく二人の背中を、わたしは見送った。肩に回した白衣の腕は、髪や背中や首筋を全部包み込んでいるかのように、大きく見えた。彼女は模様のある頬を、彼の胸に押し当てていた。二人はゆっくりと歩いた。
浴場でこの靴(くつ)をはかせてくれた時、彼の手はあんなに優しかったかしら、とわたしは胸の奥でつぶやいた。わたしは革靴の先で床を小さく叩(たた)き、あの時のふくらはぎの感触を呼び戻した。そしてその同じ指が、頬の模様を細密に撫でてゆく様を、繰り返し思い浮かべた。
樫の木の扉が、きしみながら閉まった。机の上で、ピーナッツチョコレートはすっかり柔らかくなっていた。
日が暮れても、雨は止(や)まなかった。小降りにもならないし、ひどくもならなかった。メトロノームではかったように、ずっと同じ調子で降り続いた。
わたしは受付室で依頼人の来訪を待ちながら、いつ火傷の彼女が標本技術室から出てくるだろうと、そればかり気にしていた。廊下がよく見える場所に椅子をずらし、樫の木の扉に向けてずっと耳を澄ましていた。
その間にも何人か依頼人がやってきた。ドイツ製のジャックナイフを持ってきたハンサムな青年と、ピルケースに入れた練り香水を持ってきた厚化粧の女性と、文鳥の骨を持ってきたおじいさんだった。
注意力が散漫になっていたせいか、わたしはいくつか小さな失敗をした。ピルケースの蓋(ふた)を床に落としたり、タイプを打ち間違えたり、書類にコーヒーをこぼしたりした。でも依頼人はみんな親切だったので、笑って許してくれた。
最後に来たおじいさんは灰色の作業服姿で、手に薄汚れた巾着袋(きんちやくぶくろ)を下げていた。腰掛けると同時に、何も言わずその巾着袋を逆さまにし、中身をバラバラと机の上に広げた。
「何ですか、これは」
わたしは聞いた。
「文鳥の骨さ」
しわがれた声でおじいさんは答えた。
「十年近く一緒に暮らしてたんだが、おととい死んじまった。老衰だ。しょうがねえな、寿命だから。火葬にしてやったんだ。残ったのが、この骨だ」
おじいさんは染みだらけの太い指で机の上を差した。
骨は白くて細く、きれいだった。ゆるやかにカーブしていたり、先に小さな突起がついていたり、一個一個が全部違う形をしていた。鎖をつけると、洒落(しやれ)たペンダントにでもできそうだった。わたしは一つ手に取ってみた。頼りないほどに軽く、わずかにざらりとした感触が残った。
「で、標本にしてくれるんだろ?」
おじいさんはポケットからタオルを引っ張り出し、額と髪についた雨のしずくをぬぐった。
「ええ、もちろん」
「そりゃあ助かった。埋めてやろうにも、アパート暮しで庭がないんだ。海に流すっていっても、カモメや海猫(うみねこ)ならいいけど、こいつは文鳥だからよ。かわいそうじゃねえか。あれやこれや悩んで、ここへ持って来たんだ。標本にしてもらえりゃあ、こいつも成仏(じようぶつ)できるさ」
おじいさんが喋(しやべ)っている間も、わたしは窓の向こうの廊下に目をやることは忘れなかった。
「ところでお嬢さん。あなた、いい靴はいてるねえ」
タオルをぶらぶらさせながら、おじいさんが言った。
「そうですか?」
急に靴のことを持ち出されてわたしはどぎまぎし、自分の足元を見た。
「最近、なかなかそういういい靴には巡り合えないねえ。きりっとしてて、媚(こ)びたところがなくて、意志の強そうな靴だ。それに何より、あなたの足によく合ってる。まるで、生まれた時から足にくっついているみたいに見えるよ」
「靴のこと、詳しいんですね」
「そりゃそうさ。五十年も靴磨(くつみが)きやってるんだから。一目見りゃあ、材質でも、値段でも、年代でも、メーカーでも、何でも分るさ。しかしその靴はちょっとしたもんだよ。五十年磨いてても、一回巡り合えるかどうかっていう代物(しろもの)だ」
おじいさんは空になった巾着袋とタオルを一緒にして丸め、ポケットに押し込んだ。
「でも一つ、忠告しとく。いくらはき心地がいいからって、四六時中その靴に足を突っ込むのは、よくないと思うよ」
「なぜですか?」
「あまりにも、お嬢さんの足に合いすぎてるからさ。外から見ただけでも、怖いくらいだ。ずれがなさすぎるんだよ。靴と足の境目が、ほとんど消えかかっているじゃないか。靴が足を侵し始めてる証拠だよ」
「オカス?」
「ああ、そうだ。ごくまれに、そういうすごい靴があるんだよ。足を侵しちゃうような靴がね。俺(おれ)も一度だけ、四十二年前にこれと同じタイプの靴を磨いたことがある。だから分るんだ。悪いことは言わない。それをはくのは、一週間に一度くらいにするんだな。そうじゃなきゃお嬢さん、自分の足を失(な)くすことになるよ」
おじいさんは机の上で、文鳥の骨を転がした。
「四十二年前のその靴をはいていたのは、どんな人でしたか?」
わたしは尋ねた。
「兵隊さんさ。義足にはかせた靴だった」
骨がコロコロ乾いた音をたてた。ポケットからはみ出した巾着袋の紐(ひも)が揺れていた。わたしは爪先(つまさき)で黒いリボンをつついた。
「まあ、余計な話だったかもしれないな。忘れてくれていいさ。職業病で、どうしても人の足元ばっかり気になってしまうんだ。でももしよかったら、いつか俺にその靴を磨かせてくれないか。大通りの三丁目の歩道橋の下にいつもいるからさ。特製のクリームすり込んで、ぴかぴかに磨いてやるよ」
おじいさんは立ち上がった。
「どうもありがとう」
わたしは言った。
「いやいや。ところで、標本、よろしく頼むよ」
「はい。おまかせ下さい」
「じゃあ、またな」
手を振って、おじいさんは出ていった。あとに微(かす)かに、靴墨のにおいが残った。
おじいさんが帰ってすぐに、五時のサイレンが鳴った。標本技術室の扉は、静かなままだった。わたしは受付室の戸締まりをし、廊下に出て耳をそばだてた。でも聞こえるのは、雨の音だけだった。
わたしはまだ一度も開けたことのないその扉の前に立ち、ノブを握ってみたが、動く気配はなかった。重い鍵(かぎ)が何重にも掛かっている様子だった。仕方なく、扉に耳を押し当て、目をつぶってみた。
向こう側は深い静けさの森だった。すべてのものがしんと息をひそめ、ただ静けさだけがゆっくりと渦(うず)を巻いていた。わたしは長い時間、そのうねりだけを聞いていた。しかしいつまで待っても、何も起こらなかった。
5
あれ以来、火傷(やけど)の少女の姿は見ていない。あの日、雨が止み、ぼんやりと月が見え始めるまで、わたしは扉の前で待ったけれど、少女も弟子丸氏も現われなかった。
次の朝出勤すると、いつものように弟子丸氏は受付室でコーヒーを飲みながら、記録簿に目を通していた。どこにも変わったところはなかった。わたしがあいさつすると、やあ、と言って片手を上げた。そしてキッチンでカップを洗い、長い廊下を音もなく歩き、標本技術室の扉の向こうへ消えていった。少女のことには、一言も触れなかった。
ふと気がつくと、子犬の柄の傘(かさ)がなくなっていた。前の日それが立てかけてあったあたりの床は、もうすっかり乾いていた。
それからの一週間、わたしは仕事の合間を縫って、標本保管室をくまなく回った。火傷の標本を探すためだ。
まず最初は303号室だった。そこは一番新しい保管室なので、標本の数はまだ少なかった。ふさがっているキャビネットの引き出しは、五分の一くらいだった。だから、そこに火傷の標本がないということは、大して時間をかけなくても分った。
引き出しには一個一個、ビー玉のような小さなつまみがついていて、それが規則正しく並んでいた。その引き出しに入りきらない大きさの試験管は、キッチンの壁にしつらえた特別用キャビネットに収められていた。
わたしは一番最近開けられたと思われる引き出しのつまみを、引っ張ってみた。中には、文鳥の骨の標本が入っていた。それは保存液の中を漂っていた。わたしはそっと、引き出しを元に戻した。
303号室全部の引き出しを開けてみたけれど、彼女の火傷はなかった。わたしは念のために、もっと古い保管室も調べてみることにした。
部屋番号をさかのぼればさかのぼるほど、引き出しのつまみも、試験管のシールも、標本も、中にこもった空気も、古くなっていった。キャビネットの間を歩くと、降り積もっていた時間が粉雪のようにふわふわと、足元から舞い上がってくる気がした。
キャビネットが窓をふさいでいるせいで、保管室は昼間でも薄暗かった。スイッチを入れると、天井の光がくすんだ空気をオレンジ色に染めた。
わたしは根気強く引き出しを開けていった。古い引き出しは滑りが悪く、ぎしぎし軋(きし)んだ。標本の種類は、今とそれほど違いはなかった。ただ、試験管のガラスは分厚く、保存液は淡い褐色(かつしよく)に変色していた。
いろいろな標本があった。ヒヤシンスの球根や、知恵の輪や、インク壺(つぼ)や、かんざしや、ミドリ亀(がめ)の甲羅(こうら)や、靴下どめが、眠っていた。もう長い間、誰の手にも触れられず、忘れ去られている様子だった。引き出しを動かすと、それらは試験管の保存液の底で、怯(おび)えたように震えた。
古い保管室は不思議な匂(にお)いがした。他の何かにたとえることができない、初めての匂いだったが、嫌(いや)な感じではなかった。一個一個の標本に封じ込められた過去の時間が、わずかずつこぼれ出し、混ざり合ってあたりを漂っているようだった。深く息を吸い込むと、その匂いが胸を満たした。
火傷の標本とは、一体どういうものなのだろうと、数えきれないほどの引き出しの前でわたしは思った。弟子丸氏の左手の指は、彼女の健康な方の頬(ほお)を押さえ、右手の指は傷跡の模様をなぞりながら、慎重に継目を探り当ててゆく。継目が見つかると、人差し指と親指で、破れないように気をつけながらゆっくりと剥(は)がしてゆく。途中で引っ掛かって失敗しそうになっても、あせらない。彼の息が彼女の頬を温めるくらい、二人は近づいている。彼女は目を閉じ、時々ぴくりと目蓋を震わせる。
頬から引き剥がされた火傷は、他の標本と同じように、保存液の中に沈んでいるのだろうか。それはやはり、模様の入ったベールの切れ端のように、薄くて透明で細やかなものに違いない。そして所々にはまだ、彼女の皮膚から染み出した血液がついていて、それが保存液を桃色に染めるのだ。薬指の肉片が、サイダーを染めたように……。
そんな風景を思い浮かべながら、残らず標本を調べていった。でも、こんなことをしても、一番見たいものは見つからないだろうという予感はしていた。ここにあるのは、ありふれたただの標本ばかりだった。
とうとうわたしはあきらめて、床に坐(すわ)り込んだ。靴のリボンが埃(ほこり)で汚れていた。火傷の標本が見つからないことよりも、弟子丸氏が彼女に何をしたのか、彼女を何処(ど こ)へやってしまったのかという想像の方が、わたしを息苦しくした。309号室からもの淋(さび)しいピアノの音が聞こえてきた。309号室婦人の歳老(としお)いた指は、どんな曲でも全部、もの淋しい響きにしてしまうのだった。わたしは、ため息をついた。
少女と傘が消えてからも、——もしかしたら、わたしの知らないどこかの出口から、家へ帰っただけのことなのかもしれないけれど——弟子丸氏とわたしの毎日に変化はなかった。途切れることなく依頼人が現われ、何らかの品物を置いてゆき、彼はそれを標本にした。保管室の引き出しは、一個ずつふさがっていった。
そして時々彼はわたしを浴場へ誘い、靴だけの姿にした。
秋も深まったある日、五時のサイレンが鳴り、いつものように彼が地下室から上がって来た。彼は自分でコーヒーを入れ、くつろいだ感じでその日一日の品物をチェックしたり、中庭を舞う落葉を眺(なが)めたり、「そろそろストーブの用意をしなくちゃなあ」と独り言を言ったりした。わたしは決められた手順通り、黙って後片付けをした。明日の予約表を磁石で黒板に止め、大切な書類を引き出しにしまい、鍵を掛け、湯沸器の元栓(もとせん)を閉めた。
この後片付けのひとときは、わたしをひどくどきどきさせる。彼がわたしを浴場へ誘ってくれるかどうか、このひとときに決まるからだ。「ごくろうさま」と一言だけ残して出ていってしまうか、その大きな掌(てのひら)を背中に押し当て、浴場に続く廊下へわたしを導くか、二つに一つだ。
後片付けをしながらわたしは、彼のささいな仕草にさえ神経を尖(とが)らせる。彼の誘いをわたしは一度も断ったことがない。背中の掌がしっかりと身体をとらえているので、とても逆らう気分にはなれないのだ。反対にわたしの方から誘うこともない。「ごくろうさま」の一言が、あまりにも無感動にこぼれ落ちてくるからだ。
その日、和文タイプの点検に業者の人が来たせいで、活字盤が機械から取り外され、そのまま机の上に置かれていた。それを元に戻そうと持ち上げながらも、これから彼が浴場へ行くつもりなのかどうか気になっていた。活字盤は鉛色の重い金属の箱で、五ミリくらいの正方形の升目に区切られており、その一個一個に全部、活字が詰まっていた。少しでも動かすと、活字がざわざわと揺れた。
それを抱えたままタイプの方に一歩踏み出した時、視界の中を弟子丸氏の足が横切り、わたしはつまずいて活字盤を落としてしまった。活字が一本残らず床に散らばった。
最初は何がどうなったのか、よく分らなかった。ひどい音がしたはずなのに、耳の奥はしんと静まりかえっていた。しっかりと握っていたはずの活字盤をなぜ離してしまったのか、彼の足がどうしてわたしの前にのびてきたのか、その一瞬を思い出そうとしたのに、何も浮かんでこなかった。
彼はコーヒーカップを持ったまま、床に視線を落としていた。びっくりした様子もあきれた様子も怒った様子もなかった。数え歌を口ずさみながら活字を数えているかのように、落ち着いて見えた。
しかし実際、活字は数えきれないほどあった。漢和辞典の見出し語が、全部ばらばらにこぼれ落ちたのと同じだった。わたしはつまずき、ひざまずいたままの姿で、しばらくじっとしていた。
「さあ、拾うんだ」
彼が言った。決して冷淡な言い方ではなかった。むしろ諭すような穏やかさがあった。
「一個残らず、元に戻すんだ」
彼は足元にある活字を一個、靴の先で蹴(け)った。それはわたしの前に、転がってきた。という活字だった。
とにかく最初の一個から始める必要があった。明日の朝、依頼人がやって来るまでに、元通りにしておかなければならなかった。わたしはそれを拾い上げた。
活字は四角柱の小さな金属で、文字と反対側の先端に、収まるべき盤の升目の番号が彫ってあった。は56—89だった。わたしは升目を指でたどり、56—89へ差し込んだ。広い活字盤がようやく一個だけ埋まった。
活字は部屋中のあらゆるところへ飛び散っていた。どこからか迷い込んだ無数の灰色の昆虫(こんちゆう)が、じっと息をひそめているかのようだった。そして部屋の真ん中で口を開けている空(から)の活字盤は、深い洞窟(どうくつ)の入り口のように見えた。ごく当たり前のいつもの受付室が、恐ろしく歪(ゆが)んでいた。床にかがみ込むわたしと、壁にもたれている彼の間を夕闇(ゆうやみ)が漂い、わずかに残った光が活字だけを鈍く照らしていた。
椅子(いす)の下や、金庫と床の透き間や、カーテンのひだの中を、わたしは四つ這(ば)いになって探した。どんな片隅(かたすみ)にも活字は落ちていた。が埃をかぶっていたり、ととが重なり合ったりしていた。ごみ箱の陰に隠れていたは、その日わたしが最後にタイプした活字だった。よれよれの背広を着た中年男性が持ってきたのは、雲母の結晶で、それを登録するためにタイプしたものだ。一時間もかけて彼が話してくれた、雲母の結晶についての物語は、どんな粗筋だっただろうなどとぼんやり考えながら、それを拾った。小さな四角柱は左手でつまむと、欠けた薬指の先にうまく収まった。活字はどれも冷たかった。
弟子丸氏は腕組みし、わたしを見下ろしていた。一個の活字を拾ってくれるわけでも、升目に差し込んでくれるわけでもなく、ただじっと、わたしの折れ曲がった膝(ひざ)や、そんな格好でも決して脱げない革靴や、床を掃くスカートの裾(すそ)を見張っているだけだった。彼の視線が、受付室の空気を全部支配していた。
膝がだんだん痛くなってきた。腕が痺(しび)れ、目もちかちかしてきた。もう長い時間、何の変化もなかった。彼は見張り、わたしは這いつくばる、それだけだった。一度だけ彼が腕をのばし、部屋の電気をつけた時は、この抽象的な風景が少しは違って見えるようになるだろうかと期待したが、明かりに目が慣れてしまうと、すべてが同じそのままだった。
彼のまわりにも、まだたくさん活字が残っていた。彼の足元でわたしは、無防備な小動物になってしまったような気分だった。何をされても、指の関節を踏み付けられても、背中を蹴られても、短い悲鳴を上げるだけで、それでも休みなく活字を拾い続けるのだろうかと思った。でも実際は、彼の足はぴくりとも動かなかった。
彼の靴をこんなに近くで見るのは初めてだった。それはわたしがもらった靴と同じ意味で、完璧(かんぺき)だった。彼の足を見事に包んでいた。どんな小さなかたくずれも、汚れもなかった。これを文鳥の骨のおじいさんが見たら、何と言うだろう。
いつの間にか外は真っ暗で、空の遠くに月が見えた。中庭の銀杏(いちよう)も植木鉢(うえきばち)もスコップも、闇の底に沈んでいた。309号室婦人と223号室婦人は眠ってしまったのだろうか、上では物音一つしなかった。すべてが沈黙のうちにすすんでいった。ガラスに自分の姿が映っていた。まるで彼の靴に口づけしているかのようだった。
どれくらい時間が過ぎたのだろう。夜はどんどん深まってゆき、行き着くところまで行ったあと、今度はゆっくりその闇の色を薄めていった。小鳥が鳴き始め、新聞配達のバイクが走り抜けていった。月が消えようとしていた。わたしは最後の活字——それはこの長い作業の終わりにふさわしい、のどかで美しいことば、だったが——を23—78に差し込んだ。
それが、カチリ、と小さな音を残し活字盤に収まるのを見届けてから、わたしは疲れ切って床に寝転がった。
「これで、全部だね」
ようやく彼は見張りをやめ、わたしのそばに近寄ってきた。
「一本残らず、元通りだね」
長い間無音だった部屋の中を、彼の声が響いてきた。わたしには返事をする元気もなかった。身体の隅々まで、彼の視線でぐるぐる巻きにされ、身動きできなかった。わたしは目を閉じた。自分で自由にできるのは、目蓋(まぶた)くらいなものだった。
彼はわたしの耳元でひざまずき、肩を抱きかかえた。彼の腕は大きくて温かく、気持よかった。腕の中では、身動きできない方がかえって都合がよく、安らかだった。余計なことを考えず、彼にされるまま任せておけばよかったからだ。
「君とこんなに長い時間一緒にいるのは、初めてだね」
彼が言った。それは、わたしに課せられた作業の困難さとは不釣(ふつ)り合いの、甘い言葉だった。
「夜は明けたのかしら」
目を閉じたまま、わたしは言った。
「ああ。もう朝だよ」
「そう……」
「君は一晩中、僕のために働いたんだ」
「二人で朝を迎えたのね」
「今日もいい天気になるよ。朝もやが出ているからね」
二人はまるでベッドにいるような会話を交した。でもわたしたちは、本物のベッドになど入ったことはないのだった。
目をつぶっていても、朝日が射(さ)し込んでくるのが分った。目を覚ましたどちらかの婦人の足音と、水を使う音が聞こえてきた。
「もうそろそろ、朝一番の依頼人が来るころかしら」
「いいや、大丈夫。それまでにはまだ間があるよ」
「今日は、どんな依頼人がどんな品物を持ってやって来るのかしら」
彼の白衣に顔を埋めて、わたしは言った。いつもの薬品の匂いがした。
「それは誰にも分らない」
「忙しくならないといいわね」
「どうして?」
「だって、わたしたち一睡もしてないんだもの」
「そうだね」
彼は痺れて堅くなったわたしの左手を握った。
「ねえ、いつか女の子が、火傷(やけど)の標本を頼みに来たでしょ? あれはどこにあるの?」
彼の中にいると、彼の顔が見えないので、わたしは普段よりお喋(しやべ)りになった。
「なぜそんなことを聞くの」
「わたしがここで初めて見せてもらった、きのこの標本を頼んだ人でもあるし、それに、彼女の頬がとっても印象的だったから」
「あれは、地下の標本技術室にあるよ」
「どうして保管室に移さないの?」
「理由なんてないさ。ここの標本はすべて、僕にゆだねられているんだ。誰も口をはさめない。もちろん君もだ」
「口をはさむつもりなんてないわ。ただ、彼女の頬の標本を見たいと思ったの。それだけよ」
わたしは言った。彼は何も答えず、わたしの左手をもてあそんだ。吐息がまつげにかかった。
「わたしを標本技術室へ連れて行って」
まだ彼は黙っていた。言葉を探しているようでもあったし、全然別のことを考えているようでもあった。
「あそこには、僕しか入れないんだ」
ぽつりと、彼は言った。
「でも、火傷の少女は入ったわ」
「それは、標本のためだからだ。ここでは、標本がすべてに優先されるんだ」
「じゃあわたしも、自分と切り離せない何かを標本に頼んだら、あなたと一緒に地下へおりられるかしら」
「ああ」
「わたしも、あなたにゆだねられる標本の一つになれるかしら」
彼は答える代わりに、わたしの左手の薬指を持ち上げた。わたしは目を開けた。身体から薬指だけが、ゆっくり引き離されてゆくような感じだった。見慣れているはずのその薬指が、受付室の朝日の中では、不可思議な形に見えた。彼はその先を唇(くちびる)の間に含んだ。
指先から彼の唇の軟らかさが伝わってきたのは、何秒かたってからだった。わたしは、されるままにしていた。
彼が唇を離した時、薬指は濡(ぬ)れていた。そしてその先は、彼が食いちぎったかのように、欠けていた。
6
すぐに冬がやってきた。寒さのためか、309号室婦人はあまりピアノを弾かなくなり、223号室婦人はわたしにお手製のショールをプレゼントしてくれた。花模様が入った、モヘアのショールだった。
一段と冷え込んだ朝、出勤したばかりのわたしに223号室婦人が、
「まだ仕事までには時間があるでしょ? ちょっと部屋に寄っていきませんか」
と声を掛けた。
223号室に入るのは初めてだったが、309号室よりは、ピアノがないぶんだけ広々とし、また整頓(せいとん)もされていた。ただ、ありとあらゆる場所が手芸品で飾られていた。ノブには毛糸のカバー、こたつ掛けにはパッチワーク、壁には刺繍(ししゆう)の風景画、タンスの上にはネコのぬいぐるみ、という具合だった。
「これね、もしよかったら使って。下の管理人室は、すきま風が入って寒いでしょ」
223号室婦人はそう言って、ショールを出してきた。わたしはありがたく頂戴(ちようだい)した。それから彼女は、朝食の残りだという野菜スープを温めてくれた。
「ここで働き始めて、どれくらいになる?」
彼女は聞いた。
「一年と、四か月です」
スプーンの手を止めて、わたしは答えた。
「そう。じゃあ長い方ね」
「そうですか」
「ええ。ここが標本室になってから随分たつけど、ほとんどの子が一年足らずで辞めちゃったわよ。まあ、辞めるっていう言い方が正しいかどうか、疑問だけど」
彼女は首を心持ち右に傾けた。
「どういうことですか」
「突然に、ぷっつり来なくなるの。空気に溶けたみたいに、いなくなっちゃうのよ。何のあいさつもなしにね。もちろん、ちゃんとした理由で辞めた子もいたわ。結婚するとか、田舎に帰るとか、仕事が退屈だとか、まあ、いろいろね」
彼女の声はしわがれていたけれど、まだ交換手時代の張りを残していた。空気に溶けたみたいに……という言葉を胸の中で繰り返しながら、わたしは火傷の少女のことを思い浮かべた。残像の中でも彼女の傷跡は、やはり美しいほどに淡く繊細だった。わたしはスプーンの先で、人参(にんじん)の切れ端をつつき、スープの底に沈めた。
「わたしの前に事務をやっていたのは、どんな人でした?」
「あなたと同じくらいの若い娘さんよ。その子のことはよく憶(おぼ)えているわ。消えちゃう前の日の夜、偶然見かけたから。刺繍糸を買いに手芸店へ出掛けようとして、廊下で会ったの。向こうは気づかなかったみたい。夕暮れ時で薄暗かったからね。うつむき加減で、でも深刻な感じじゃなく、なんて言うか、ひそやかな感じだった。その時の彼女の靴音(くつおと)が、とっても印象的だったの。昔、電話の交換手だったから、音には敏感なのよ。これは簡単に聞き流すことのできない、何かの意味合いを含んだ音だと、直感したの。大きな音っていう意味じゃないのよ。むしろつぶやくような、ささやくような音。他には何の物音もしないの。ただその靴音だけが、コツ、コツ、コツ、って規則正しく、真っすぐに響いてた。人の靴音にこんなに引き付けられたことはなかったわね」
彼女はこたつ掛けのパッチワークの縫い目を撫(な)でていた。
「その次の日よ、消えちゃったのは」
「その人がどんな靴をはいてたか、憶えていらっしゃいますか?」
わたしはスープを飲むのを忘れ、スプーンを握ったまま尋ねた。
「それは憶えてないわ。暗かったから見えなかったし、耳にばっかり神経がいってたから」
「そうですか……」
わたしはスープ皿の中に視線を落とした。
「彼女は、どこへ向かって歩いていたのでしょう」
「地下室よ」
223号室婦人は、さらりとそう言った。
「それにしても、あの弟子丸っていう人も正体不明だわね。地下に閉じこもって標本ばっかり作ってると、ああなってしまうのかしら。でもあなたは、急に消えたりしないでよね。またいつでも遊びに来て。裁縫、教えてあげるから」
彼女は無邪気に微笑(ほほえ)んだ。
「はい。素敵なショール、どうもありがとうございました」
チ・カ・シ・ツ・ヨという彼女の声と、火傷の頬と、廊下の靴音が、三つ一緒になってわたしの中で渦巻(うずま)いていた。
木枯らしが吹いて雪が舞うようになると、依頼人の数はまた減ってきた。冬になると、封じ込めたい過去も凍りついて、わざわざ標本にする必要もなくなるのかもしれない。
そんなある日、突然に309号室婦人が亡(な)くなった。お昼過ぎ、みかんを持って309号室を訪ねた223号室婦人が、ベッドの中で息絶えている彼女を見つけたのだった。223号室婦人の悲鳴を聞いてわたしと弟子丸氏が駆け付けた時、床の上にはみかんがいくつも転がっていた。
309号室婦人は仰向けで、身体をのばし、肩まで毛布を掛けていた。苦しんだ様子はなく、目を閉じていた。眠りの途中で、不意に彼女の回りだけ時間が止まってしまったような、すっきりした最期(さいご)だった。枕元(まくらもと)には、たぶん昨夜飲んだのだろう何かの粉薬と、わずかに水の残ったコップが置かれていた。ピアノの蓋が、開いたままになっていた。
わたしは床に坐り込んで震えている223号室婦人を抱き起こし、彼女が腕に提げている籐(とう)の籠(かご)の中に、みかんを集めた。弟子丸氏は毛布の端をきれいに直し、ピアノの蓋を閉めた。
お葬式は、女子専用アパート時代、遊戯室として使われていた部屋の卓球台を運び出し、そこで行なわれた。彼女には一人も身寄りがなく、見送ったのは223号室婦人と弟子丸氏とわたしの三人だけで、ひっそりとしたお葬式になった。たくさんの曲を奏(かな)でた彼女の指は胸の上で組まれ、真っ白い髪の毛は花の中に埋もれていた。
彼女の遺品をどうしたらいいかについては、みんな頭を悩ませた。金銭的に価値のあるものは何もないのだけれど、この狭い部屋によくこれだけの物が納まっていると感心するくらい、実にさまざまな小物があふれていたからだ。
結局わたしたちは、協力し合って遺品を整理することにした。まず活用できそうなものは三人で分け、——と言っても弟子丸氏とわたしが使えそうなものはあまりなく、衣料品や化粧品などほとんどは223号室婦人が譲り受けたのだが——ピアノは玄関ロビーに据(す)え付け、その他の物は処分することにした。ただ生前、彼女が特別大切にしていたと思われる品物、十個ばかりについては、——写真やメトロノームやピアノカバーなど——標本にして残すことにした。そんな大切な選別を、わたしたちだけでして大丈夫なのかが心配だったが、223号室婦人は「せっかくここは標本室なんだから、何かを標本にしてあげましょうよ」と賛成した。弟子丸氏も反対しなかった。こうして、依頼人のない標本が作られることになった。
他のいろいろな手続きはスムーズに片付いた。309号室は空になり、近い将来、標本保管室として生まれ変わるまで、鍵(かぎ)を閉ざされた。
たった一人いなくなっただけで、しかも彼女はピアノを弾くだけのおとなしい老人だったのに、標本室はその静けさをますます深めていった。223号室婦人は相変わらず手芸ばかりしている様子で、ほとんど物音を立てず、地下の標本技術室の気配は、重い扉(とびら)に邪魔されて何も伝わってこなかった。一人受付室で依頼人を待っていると、静けさの渦の一点に吸い込まれそうになって、はっとすることがあった。
その日は朝から、玄関のドアをノックする人もなく、電話のベルも一回も鳴らず、一段ともの淋(さび)しい一日だった。最近、依頼人の数が減って、標本にすべき品物は一つも残っていないはずなのに、弟子丸氏はずっと標本技術室にこもっていた。わたしはタイプに油を差し、鉛筆を削り、名刺と手紙を整理し、ガラスコップをクレンザーで磨(みが)き、できるかぎりの方法で時間をつぶしたあとは、ただストーブの音を聞きながらぼんやりしているしかなかった。
午後四時を過ぎ、いい加減うんざりして、わたしは散歩に出た。本当はそういうことは好ましくないのだけれど、こんな寒い曇り空の夕方に、依頼人がやって来るとはとても思えなかったし、どうしても外の空気が吸いたくなったのだ。
外は風が強かった。大通りは渋滞し、車のヘッドライトがぽつぽつと点(つ)き始めていた。枯葉が歩道で舞っていた。みんなうつむき、早足で歩いていた。
わたしの靴(くつ)は、以前文鳥のおじいさんが言ったとおり、今ではもうほとんど足と溶け合っていて、歩道を叩(たた)く音はかかとの骨に深く響いてきた。家に帰り着いて玄関で靴を脱ぐ時は、いくらか勇気がいった。皮膚を剥(は)ぎ取るような痛みが走る気がして、靴に手を掛けたまま、いつもしばらくためらってしまうのだった。
灰色の雲が、西の空へ流れていた。時々、一段と冷たい風が舞い上がり、髪とスカートを乱した。わたしは首に巻いたモヘアのショールを、きつく締め直した。
十五分ほど歩くと三丁目の交差点に出た。オフィスビルと交番と書店に囲まれた、人通りの多い交差点だった。わたしはそこに架かっている歩道橋の下を覗(のぞ)いた。
「こんにちは」
文鳥のおじいさんは、あの時と同じ作業服姿で煙草(たばこ)を吸っていた。
「こりゃあ、驚いた。標本室のお嬢さんじゃないか」
おじいさんはあわてて足元の空缶(あきかん)に煙草を投げ込んだ。
「特製のクリームで磨いてくれるっていう約束、本気にして来ちゃいました」
「そうかい、わざわざ来てくれたのかい。さあ、さあ、ここに坐(すわ)りなよ」
古いパイプの椅子(いす)にわたしは腰掛けた。
「あれ以来、文鳥の標本はどうしてる?」
仕事を始める用意をしながら、おじいさんは言った。
「ええ、303号室に丁重に保存されていますよ。骨というのは、標本には適した素材のようです。保存液の中では、骨の白さや滑らかさが、一層際立(きわだ)って見えますからね。いつでも自由に、ご対面にいらして下さい」
「ああ、ありがとうよ」
自分から切り出しておきながら、あまり標本のことは気にしていない様子で、それよりも靴磨きの方に神経を取られているようだった。
「おー、やっぱり思ったとおりだ」
台の上にのったわたしの足を見て、おじいさんはうなった。
「これは並みの靴じゃない。前よりも一段と侵食が進んでいる」
「本当ですか?」
「間違いない。お嬢さんの足は、もうほとんど靴に飲み込まれる寸前だよ。四十二年前にここで出会った兵隊さんの靴と、確かに同じだ。またこんな靴に巡り合えるなんて、靴磨きとしては幸運なことだ。とにかく、磨かせてもらうよ」
おじいさんは仕事にとりかかった。
彼の両脇(わき)には絵の具箱のような木製の箱があって、その中に、かなづちや、釘抜(くぎぬ)きや、やすりや、いろいろな色のクリームの缶や、刷毛(は け)や、その他こまごまとした道具がコンパクトに納まっていた。どれも十分に使い込まれていた。